午前0時起床。テントを叩きつける強風の音も、これから山頂に向かう高揚感から全く気になりません。真夜中のC4最終キャンプは、悲願だった決勝戦が、ついに始まるという雰囲気そのもの。標高7,400m、希薄な大気の標高ですが、その活気から濃い空気に包まれている感じです。
標高8,000mに入るための装備を、登山の装備とは思えない重装備さから、愛称として「宇宙服」と呼んでいます。酸素ボンベのレギュレーターを確認した後、酸素マスクの装着を終え、ハイドレーションシステムのチューブを凍らせないよう喉元にスタンバイさせていると、これから宇宙空間に踏む込む宇宙飛行士のような気持ちになります。
山頂の方向を見上げると、オリオン座が見えています。快晴と思われるはずの夜空ですが、雪煙によって、幻想的に美しく滲んだかと思えば、シャープな輝きに戻ったり、まるで星空全体が脈を打っているようです。気圧368hPaという貴重な観測地。非常に希薄な大気での星空の見え方について、冷静に眼視観測します。色鮮やかな冬の一等星たちが、全てモノトーンに見えたのは、天体観測屋にとって大きな発見でした。
午前2時30分出発。ヘッドライトの灯りだけを頼りに登山を開始します。気象予報では下り坂。酸素ボンベの残量も限りがあります。登頂した後、C4を通過して、日没前にC3まで下りる計画なため、常に急ぐ必要があります。そのC3到着予定時刻から逆算して、時間切れと判断されれば、山頂にまで到達出来なくても、即撤退する必要があります。深追いは厳禁です。行動中の酸素残量0、C3到着前での日没は考えたくありません。
断熱カバーで凍結対策を万全にしたハイドレーションシステムでしたが、息を強く吹き込んでも何の反応もしません。登山を開始して間もなく、飲料水は凍ってしまいました。C4に戻るまで水分補給が絶たれた現実を、最初に起きたトラブルとして冷静に受け入れます。
酸素マスクからの呼気で凍りついたサングラス越しに、東空から月齢27の細い月が昇ってきました。月出の時刻は把握していたので、現在時刻が分かりました。
突然、先行している隊員たちが立ち止まりました。その先、数十人が立ち止まっています。約3mの雪壁が1箇所あり、そこを越えるための渋滞です。立ち止まっている間に夜が明け、霜が降りたように白い姿になっていました。
渋滞のため待機していると、強風で吹き上がった雪煙をかぶり、ますます白く全身が凍ってゆきます。宇宙服のおかげか、クライマーズ・ハイのおかげか、この状況でも寒さを感じません。また、渋滞による焦りもありません。白い姿になってゆく様子を眺めながら、何も考えず、静かに順番を待ちます。
目指していた稜線に辿り着くと、その先に新しい稜線が遠くに見えてきます。そんな裏切りを数回繰り返し、見えている稜線に期待をしなくなった頃、鋭いピークが見えてきました。マナスル峰山頂です。麓のサマ村で眺めた以来の、頂です。強風で聞こえづらい上に、酸素マスクを装着しているため、目の前を歩くパートナーですら聞こえるはずはありませんが、やはりお決まりのセリフ、「あれが頂上か!」と本能的に叫んでしまいます。これは自分自身に、声で伝えたかったのかもしれません。
午前10時45分、標高8,163m世界第8位マナスル峰登頂。1965年に日本山岳会が世界で初めて登頂に成功した山頂です。初登頂から58年経ちますが、未だに登頂者は600名もいない頂です。
山頂は、2人が立てるほど広くありません。強風の中、狭い山頂から滑落しないよう、パートナーと掴み合いながら山頂に座り込みました。しかし、これでは「山頂に立った」とは言えないことに気がつき、ゆっくりひとり立ち上がりました。雪面から離れたことで、視界が何倍にも広がった感じです。
この場所が最も危険な場所であることが分かっているため、嬉しさや感動は湧いてきません。ただ、山頂に立ち上がった瞬間、「一生楽しめる思い出がひとつ出来た」という漠然とした気持ちに全身が包まれました。山頂滞在時間2分間。この2分間は、物としては残せませんが、私にとって特別な宝物です。
ヒマラヤ・世界第8位高峰マナスル峰(8,163m)遠征 vol.19 へ