高所順応も最終行程。酸素濃度の低いC2標高6,350mで一晩過ごした後、ノース・コル直下に設営されるC3標高6,750m手前まで登ってBCまで一気に戻ります。アイスフォールを通過しても今晩の宿、C2まで45度近い急斜面が延々と続きます。
緊張を強いられる区間を通過すると、見通しが良くなってしまいます。山容のスケールによる目の錯覚か、疲れによる精神的な錯覚か、C2まで何日間もかかるような絶望的な距離にしか見えません。先行しているパーティが信じられないほど小さく、止まっているように見えます。気が遠くなるため、足下のブーツだけを見つめながら(自称)早足で頑張ります。
午後の早い時間に到着したため、ぬるい紅茶を飲みながら、隊員たちがゆっくり登ってくる様子をテントからぼんやり眺めます。体力任せで速いペースで登り過ぎたダメージが徐々に出始め、酸素不足による睡魔に襲われます。この睡魔を寝不足や疲労によるものと勘違いして眠り込んでしまったら大変です。
深呼吸の深さと呼吸の早さを組み合わせて、過呼吸にならないよう、体調が求めている酸素の供給量をゆっくりと探ります。体調にあった呼吸を見つけると、みるみる意識がクリアになり、パートナーが到着する頃には、いつも通り元気にお出迎え。
このパートナーはテント到着後、休憩することなくテント入り口前の硬い雪面をピッケルで掘り続けます。テント幅ほどの大きな穴が完成すると、「これでブーツが履きやすくなったし、アイゼンも楽だね」と笑います。
この苦しい環境の中でも、二人用のテント、一晩しか野営しない場所でもパートナーを思う姿勢に、その人本来の人柄がはっきりと出ます。標高が高くなるほど、平地では誤魔化せられていた、その人自身の人間性が表れます。
ゆっくり紅茶を飲んでいた自分が恥ずかしくなり、慌ててパートナーがテントに放り込んだ装備をほどき、すぐに寛げるようテントマットやシュラフを整えます。チームで行動している意味と役割を怠っていることを猛反省します。長期間となるヒマラヤ遠征は、素敵な仲間に恵まれると登山以外のことも気がつかされ、学ばせてくれます。
無風なのでテントの入り口を全開にして、二人で日が暮れてゆく様子を眺めます。前方にはチベット高原が広がり、後方にはあれほど遠くに見えていたピナクル峰が目の前に。
夕暮れ時の斜光から、岩壁の荒々しい素顔が強調されます。西方のマナスル・ノース(北峰)は、雲が吹き上がり、翌日の天候を不安にさせるため無意識に見なくなります。雲海が広がり、C1は雲の中、BCは雪が降っていそうな天候です。雲海の所々で積乱雲が発達し、あちらこちらでリズミカルに雷光が走ります。
薄明が終わると、今晩も星空散歩の始まりです。昼は山歩き、夜は星空歩き。C2は滑落の危険があるため、テントからの星空観望です。ヒマラヤ山脈の神々しい風景と高度感、酸素濃度の薄さから、天高い星空を眺めているというより、宇宙空間と地球空間の境にいて、宇宙服なしで宇宙に触れているような感覚で嬉しくなります。
澄んだ大気の影響で、月明かりの下でも、満天の星のまま。夜空を見上げる機会の多い天体観測屋にとって、この夜空は、世にも奇妙で摩訶不思議な星空です。星屋でありながら山屋でもあるささやかな特典です。テントの中がそろそろ就寝という雰囲気を感じたら、パートナーのことを考えてテントの入り口を閉じます。
翌日も快晴。雲量ゼロ。風速ゼロ。気温は低温ですが、高所特有の日差しの強さと雪原からの強烈な照り返しで、異常な暑さです。雲海が広がり、下部のキャンプ地は怪しい天候ですが、C2より上部は最高の眺望です。東西南北、前後左右、上下どこを眺めても素晴らしい風景です。
副隊長が決めた高所順応の最高地点、C3手前で折り返します。
長かった高所順応の終了です。高所に順応した身体での下山スピードの速いこと、速いこと。
雲海に向かって飛び込むようなスピードです。登りでは困難なアイスフォールも、懸垂下降を繰り返してテンポ良く進みました。
ヒマラヤ・世界第8位高峰マナスル峰(8,163m)遠征 vol.13 へ