当初計画していたタンザニア縦断ルートは、まだ観光地化されていないタンザニア西端のコンゴ民主共和国との国境沿いにあるタンガニーカ湖の一部を船で移動して、ルワンダへと抜けるルートでした。しかし、西タンザニアの情報は現地でもあまりに少なく、船の運行状況が不明確なこと、また乾燥したサバンナ地帯なので水の確保が難しいこと、それからカバなどの野生動物がたくさん生息していることが、西へ行くべきかどうか躊躇する要素となっていました。

それでも情報がないからこそ、未知の冒険ができるのではないかと前向きに考えていたのですが、路上で出会ったこのルートを通過してきたサイクリストから、ある重要な情報を得ました。それは、タンガニーカ湖沿いの道は、“吸血バエ”がいるという恐ろしい情報でした。自転車走行中、ハエが全身に纏わり付いてくるのはただでさえ不快なのに、それに痛みが伴うというからまさに地獄です。その話を聞いた瞬間、ルートを変えようときっぱりと決断しました。

出発以来、内陸で旅を続けていた私たちは、気分転換を兼ねてタンザニア東部のインド洋まで出てみることにしました。ですがそのルートを選ぶとルワンダへ向かうにはかなりの遠回りになるため、一部を列車で移動することに。タンザニアの主要都市と近隣国を結ぶタンザン鉄道は、70年代に銅鉱石の輸出入目的で建設され、初めて南部アフリカと結ばれた鉄道網です。

時速20〜30kmの非常にゆっくりとしたスピードで走る各駅列車の旅は、小さなゴキブリがいること以外は快適で、列車内で出会った人との交流や流れ行く村の風景を楽しむことができました。しかし列車内では日頃から盗難が多発しているようで、同じ車両に乗り込んでいた私服警官から重々注意を促されていました。
おかげで私たちの荷物が紛失することはなかったのですが、唯一想定外だったのが、寝ている間に自転車バッグの底をネズミに齧られて思いっきり穴が開いてしまったことでした。いくら十分に警戒していても、避けられないことはあるようです。

積み重なる遅延で予定よりずいぶん遅れた列車は、乗車してから3日後に無事ダルエスサラームへ到着しました。早朝にもかかわらず道路の交通量は凄まじく、短い車間距離で走る車の列が途切れることなく通り過ぎていきます。あの時ほど横断歩道を渡ることに恐怖心を感じたことはかつてなかったでしょう。


車通りが激しい幹線道路を抜けて一旦街中へ入ってしまえば、歩行者でいっぱいの活気溢れる街並みが広がっています。私たちが宿泊した地域は、多くの小売店や食堂がひしめき合い、他のアフリカの首都で見られるような大型スーパーマーケットはひとつもありませんでした。その分人と人との距離が近く、3日も滞在すれば周囲のお店の人と顔見知りになれるのも心地よかったです。



ダルエスサラームの下町では、ただ歩いてるだけで興味深いものに出会えます。このおじさんは自作で自転車にモーターを取り付け、移動式刃物研ぎ屋さんを路上で営んでいました。興味津々であらゆる角度から見物している私たちに気を留めることなく、オーダーされた刃物を研ぎ続けるおじさんの様子はまさに職人。アフリカでは、本当に様々な自転車の利用方法を見掛けます。


また、都会であっても安価なストリートフードがどこでも食べられるのがダルエスサラームのいいところでもあります。路上でご飯を配給する女性は“ママ”と呼ばれ、彼女たちは自宅で仕込んできたご飯をバケツいっぱいに入れて、毎日街の路上へやって来ます。ボール一杯100円のピラフ風のご飯は、その環境から衛生的に良いものには見えませんが、しっかり火が通っているのでおなかを壊さず美味しくいただくことが出来ます。


ダルエスサラームの街は近代化が進みながらもローカル感を失っておらず、どこにでもある田舎の村にインフラが整備されて、人がぎゅっと密集したような印象でした。それでもやはり、ダルエスサラームに暮らす人の大半が仕事で来ているとあって、そこで生き抜く厳しさのようなものを感じたのも事実です。

普段であれば、数日間街の雰囲気を楽しんだらすぐに移動してしまうアフリカの首都ですが、ダルエスサラームには合計で1週間近く滞在しました。宿の窓から見える常に人が行き交う小道は、どれだけ眺めても飽きが来ないほど、この街の一瞬一瞬の移り変わりを映り出しているような魅力がありました。