私たちがイギリス帰省している間、あまり雪の積もらない私たちの森に稀な大雪が降ったと聞き、帰国後すぐさま真冬の森へ戻ったところ、案の定テントが雪の重みで真っ二つに折れ崩壊しており、住まいを立て直すところからスタートした今年の森暮らし。もちろん直す手間はありましたが、これを機にテントを取り除いてビニールシート小屋へと変貌させ、室内空間が広くなったので、結果的にはよしとしましょう。

今年の冬はよく冷えるようで、私たちが森へ戻って数日後にも、朝起きると雪景色が広がっていました。森を散策しながらシンと静まり返る美しい銀世界を満喫していると、急に雲が抜けて青空が広がり、太陽で溶けだした雪が上から降り落ちてきました。

こんな幻想的な瞬間を自分たちの暮らす環境でひとり占めできるのは、贅沢としか言いようがありません。住まいが壊れても、冬の半野外生活がたまに過酷でも、こういった出来事があるからまぁいっかと思えてしまいます。自然はいつでも、ふとしたときにあたたかいサプライズをしてくれるのです。

森での日々の作業は、季節や天候によってやるべきことが変わってきます。去年の冬は、植物が目覚める春までに、広大な藪と伐採した針葉樹を綺麗に片付けることに専念していましたが、今年は休眠している1本の木をどうするかで考え悩んでいました。それは、家を建てようと計画している場所のすぐ真上にある、土地を買った当初からとても気に入っていたナラの大木です。

元は、この木が夏になると気持ちのい日陰を作ってくれるので、あえてこの木の下に家を建てようとしていたのですが、去年の秋、そこから数十メートル離れたところにあるナラの木がナラ枯れの虫の被害に遭っていることに気が付き、この木にも被害が広がってしまうのではないかと心配になったのが事の発端でした。去年の夏は特に、ナラ枯れで紅葉のように葉が真っ赤に染まり枯れてゆく広葉樹をよく目にしていたので、その被害の深刻さに不安を覚えていました。

もし枯れてしまったら、家を建てたあとだと、とても大掛かりな特殊伐採をしなければならないし、太い枝が屋根に落下してもかなりの衝撃がある。でも、何の問題もなくこの先も生き延びてくれるかもしれない。今の段階で伐採すべきかどうか、考えても考えても正しい答えはなかなか見つからず、自分たちの都合でこの偉大な生命を絶ってしまっていいのかとしばらく気持ちを決められずにいました。

最終的に、ツリークライミングをする友人と共に伐採をすることに決め、1日半かけて樹齢50年の大きな木を倒したのですが、今でもその選択が正しかったのかは分かりません。立派な切り株をみると罪悪感と悲しみを感じ、たった1本の木にこれほど自分が感情的になっていることに驚きました。しかし、伐採したらそれで終わりではなく、幹の部分は製材して家づくりの材にし、太い枝は椎茸の原木に、細い枝は薪と堆肥へと、どの箇所も無駄にせず生活に利用させてもらうことが唯一私たちが出来ることだと思いました。

春が訪れ、植物たちが目を覚ますと、去年は笹で覆われていた地面に花や下草が生え、伐採したあとの切り株からは萌芽が芽生え、新たな樹木の苗木も自然に成長している様子がうかがえます。今では樹木に限らず、ほんの小さな植物でも愛しく思え、それらを上手く生かすも奪うも私たち次第なのだと気付き、森を育てるような暮らしがしたいと改めて感じています。

自然界には、人間のような所有欲や自分主体の作用がないため、本来は自分と他人の土地の境界や、自分が育てた作物と野生の植物との隔たりが一切存在しないことを教えてくれます。 そして、たとえ現代の都市的な暮らしであったとしても、この自然のシステムの上に成り立っていることを忘れないようにするため、自然に近い暮らしをするこでそれを肌身で体感しようとしているのかもしれません。