人類初の宇宙飛行を成し遂げた国、ロシア連邦。ヨーロッパ大陸最高峰・エルブルース峰は、その国にあります。ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンが宇宙から伝えた有名な言葉より、宇宙船ボストーク1号が発射された際に彼がつぶやいたとされる「さあ、行こう!」という言葉が好きです。これから未知の世界に向かう気持ちが短い交信記録からも伝わります。その情景を思い浮かべながら、ヨーロッパ大陸最高峰を旅します。

午前3時起床。夏の星座は、はくちょう座とこれから目指す西峰が重なっています。薄い靄がかかっている気象条件であることを、ヘッドランプの光跡が教えてくれます。最初のポイントとなる鞍部を案内してくれる道標のように、天の川と鞍部がスカイラインでつながっています。バビロニアでは、天の川のことを「天のユーフラテス」と呼んでいました。ここでは地理的に、こちらの呼び名の方が合っているかもしれません。はくちょう座の一等星デネブが、舞い上がった雪煙で滲ませながらも白く輝いています。デネブまでの距離は2,000光年。その2,000年前に放たれた光を眺めながら、まっすぐ山頂に向かって登ってゆきます。またひとつ、はくちょう座を眺めた時に楽しめる思い出が仲間入りしました。登りに集中していたため、夜が明けても景色を眺めるということをすっかり忘れていました。振り返って眺めたこのパノラマは、今回の登山を象徴する印象深いシーンとなりました。

「来て良かった…! 」率直な気持ちが声に出てしまいました。この無意識に放っただ自分の声が、突然フードの中で聞こえてきます。

コンティニュアンスで行動しているため、空の状態を詳しく観察できませんが明らかに良くない雲の変化です。出発時は天球に星々が張り付いたような落ち着いた星空でしたが、この山域全体の大気が動き始めています。昨日の短時間で天候が急変した光景と、一昨日の夕食時に疲弊して戻ってきたチームの姿が重なります。

眼下だけでなく、上空も急速に乱れ始めました。

巨大な双耳峰の特徴かもしれませんが、この気流が二つの峰によって荒々しく乱れ、こちらの気持ちまで乱されます。天候悪化が予想されるため、最高峰である西峰を諦めて、標高の低い東峰に目標を変えるというプランについて話し合います。2チームに分かれ、中でも速いスピードで行動できるメンバー2名は、先行して予定通り西峰に向かうこととなりました。

滑昇霧なのか霧雲か分かりませんが、視界が悪くなり始めたため、登るスピードを数段上げます。天候悪化による撤退の不安から、標高5,200mを超えた場所での登山とは思えないハイペースで気力で登り続けていました。酸欠による影響と思われますが、次第に膝から下、肘から先が痺れ始めます。

滑落に気をつけながら、雪面を1時間以上、蹴り続けます。

目標物が乏しいため、距離の感覚がつかめません。しかし、なんとなくヨーロッパ大陸のてっぺんかもと思えるような雰囲気に包まれ始めます。経験上、ピークは逃げることが多いため、本物のピークはまだまだ先と言い聞かせて、粛々と登ります。

平地となった雪面を歩道のように歩いてゆくと、その先は崖、行き止まりになりました。午前10時55分、標高5,642m西峰の山頂に到着です。

アコンカグア峰に登頂した時は、達成感に満たされ過ぎてしまい、表情がなくなってしまいました。気持ちが昇天してしまい、南米大陸最高峰からの眺めも覚えていません。しかし、今回は違います。感情を円グラフで示すと、100%「嬉しい」という気持ちのみ。純粋に「やったぁー!」という気持ちは、ここまで心地良いものということをエルブルース峰が教えてくれました。アコンカグア峰のてっぺんでは「達成感」でしたが、エルブルース峰のてっぺんでは「嬉しい」という気持ちが出迎えてくれました。「有頂天外」という言葉そのものです。

氷点下9度、風速5m。エルブルース峰も少しだけ気を遣ってくださったのか、比較的穏やかな山頂です。

15分間、風景をしっかり眺めます。エルブルース峰は、それほど高い山ではないので特別な登山技術は必要ありません。高校生の頃から憧れていた世界五大陸最高峰の一峰であるエルブルース峰。「憧れの峰」から「登った峰」に変わった瞬間が、これほど嬉しいものなのかという気持ちに酔った15分間となりました。

その山頂とお別れです。二度とこの場所に訪れることはありません。10mほど下山した時、再び山頂へ小走りで戻って山頂の記念碑に抱き着いてしまいました。その時、どこかの国の登山者が石碑の岩陰に残していったと思われる写真ですが、笑顔の男の子と目が合いました。どんな気持ちで、この写真を残していったのでしょうか…。

午前11時35分、標高5,420m、積雪5m~6m、西峰と東峰の鞍部に到着。ここで別れたチームと合流することとなっています。視界10m、風は強くありませんが視界の悪さが不安にさせます。

別れたチームと合流するまで、結局2時間ここで待ち続けることに . . . 。パートナーは高度障害のため、呼びかけても眠ってしまいます。リュックサックを長時間動かさなかったため、下山用として確保しておいたボトルの水は、レンガのように凍ってしまいました。自力歩行が困難なメンバーもいたため、両肩を支えての3人がかりでの下山となりました。平衡感覚を惑わすほどのホワイトアウト、数十メートル先の人影と信じて疑わなかったものが、実は雪面から20cmほど出ていた折れたワンドだと分かった時、改めて雪山の怖さを実感します。さらに、登山ルートを間違えて登ろうとするソロ登山者を救助したり、様々なリスクの因子が多発的に発生し始め、長時間緊張が続く下山となりました。
※2002年9月にフィールドに訪れた際の記事となります。